「進藤建設」の創設者 進藤繁が筆を執りました自伝については別のブログで触れましたが、今回はその著書の中から約50年前に世界を騒がせた「オイル・ショック」を進藤建設が乗り越えた方法について書こうと思います。
なぜかと言いますと、昨今、建築・建設現場でも起こった「コロナ禍」での物価高騰・材料不足という危機的状況。
まさに状況は同じ。
それでも進藤建設が乗り越えられた方法が現在にも通ずると思い触れてみました。

オイルショックとは?
■第1次オイルショック
時期: 1973年10月~1974年初頭
背景: 第四次中東戦争(1973年10月)を契機に、アラブ産油国がイスラエル支持国への石油輸出を制限したことが発端。これにより、世界的に石油価格が急騰。
■第2次オイルショック
時期: 1979年~1980年代初頭
背景: イラン革命(1979年)によるイランの石油生産の停滞と、直後のイラン・イラク戦争(1980年~)が原因で、石油供給がさらに不安定になり、価格が再び大幅に上昇。
皆様ご存じの通り日本にも様々な影響があり、進藤建設には下記のような影響がありました。
昭和四八年(1973年)請負高四千万円(当時)の工事の落札と同時に打合せ済みだった塗装会社との工事契約を結ぶ。ところが契約の一週間後に“突然”のオイル・ショック。塗装会社から「材料が手に入らない。工賃および材料費の高騰のため、この契約はお断りします」と、あっさりとした電話で無しに。。
今のようにインターネットの情報網が発達していない当時のこの展開。
著書にもある“突然”という衝撃は当時の方があったかと思います。
ここからまず手に入らないと言われた「材料」の入手に、あっちへ電話・こっちへ電話の三日間。手は打ってみたものの結果は駄目。
普通であればこれで終わりになってしまいそうなものですが、進藤建設が乗り越えられたここからの怒涛の展開。
- 違う現場の下調べに同道されていたある企業が今回の工事に必要な材料を、アメリカの会社と契約し日本全国に販売しているという話を思い出す。
- その企業の系列会社の副社長の自宅の新築工事を進藤建設が担当していた関係もありダメもとで副社長へ電話。
- 「作ってもらった檜造りの家はいいね。毎日、快適に生活ができて、ありがたく思っていますよ」と感謝される。
- 工事に必要な材料がオイルショックの影響で手に入らず困っていることについて相談。
- なんとその電話したタイミングで、電話先の副社長の隣の部屋では、ある企業の系列会社(十社ほど)が集まってオイルショック対策会議中とのこと
- 副社長から「車を飛ばしてすぐ来なさい。話に乗る」とのお言葉。
- 副社長も同行のもと関係企業の本社を訪問。
- そこでも副社長からの一声「進藤さん達をよろしく頼みます」
- 口利きもあり、なんと翌日の朝一番に全材料が到着。
- さらには材料がそろった事で一度工事を断られた塗装会社も「元通りやらせて下さい。さらに契約不履行の罰金として工賃も値引きします」との展開。
- 最終的には予定よりも早く工事が完了する。
なんと一週間もたたないうちに材料不足を解決、さらには資材の価格も安価に手にすることが出来、工賃までも値引きしてもらい、工事も早く完了してしまうんです。
冒頭に触れましたが、進藤建設がオイルショックを乗り越えられた方法
それは「ヒト」でした。
これは前回も触れたのですが“創設者 進藤繁は特に「ヒト」を大切にしてきた”その結果が顕著に出た展開だなと思ったところです。
「自分のものを半分にしてでも、先方に上げること。この方が、自分にとってどれ程気持ちがいいかもしれません」
今回のオイルショックを乗り越えたときに進藤繁が書いた一文。
怒涛の展開の中に書いてない部分でも細かな「ヒト」のつながりがあり、奇跡のような展開になってます。
やはり進藤建設は「ヒト」なんだなと、今回も思ったところで次は
「そんな現在の進藤建設はどんなヒトが働いているの?」という部分に触れてみたいと思います。
何かをきっかけにこのブログを見ていただいて、今日まである進藤建設はこんなヒトが働いている会社なんだと知っていただきご興味を持っていただけたらと思っております。